Jan 10, 2012

マルティン・ニーメラー艦長 Oberleutnant zur See Martin Niemöller!


 皆さん、こんにちは。マルティン・ニーメラー牧師(1892.1.14 Lippstadt - 1984.3.6 Wiesbaden)の「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」は、第二次世界大戦の歴史周辺に興味がある方なら一度は耳にしたことでしょう。。。んふふふ、でも今回は違います。今回はマルティン・ニーメラー/ビギンズをご紹介いたします。


(おお、ケツ顎!)


 マルティンはルター派の牧師ハインリヒ・ニーメラーと彼の妻パウラ・ミュラーとの間に誕生。1915年から乗艦する。

 最初は「チューリンゲン(SMS Thüringen)」に駐留していたが、10月に潜水艦母艦「ヴルカーン(SMS Vulkan)」の次席士官となり、U-3(U3型潜水艦。1909年にU-3、U-4の2隻が就役)でUボート乗組員としての訓練を受けた後、1916年2月に U-73の二等航海士として配属された。
(※U-73は帝国海軍ダンツィヒ造船所で作られ、1918年10月30日に自沈。当時の艦長はグスタフ・シース海軍大尉 Gustav Sieß。第二次大戦には別のU-73が存在する)

 1916年4月、U-73は地中海に移動。サロニカ戦線で戦い(オトラント海峡封鎖に対して。1917年5月15日にはオトラント海峡海戦が行われた)、1916年12月からポートサイド鉱山の通商破壊を指揮した。
(※ポートサイドはエジプトの北東部、スエズ運河の北端、地中海沿岸にある都市)

 U-73は戦争の計略としてフランスの旗を翻し、イギリスの軍艦を通過、連合国の2隻の兵員輸送船と軍艦を魚雷攻撃。1917年1月、U-39の操舵手になった後キールに戻り、1917年8月にU-151の一等航海士となりジブラルタル海峡、ビスケー湾、その他の海域で多数の連合軍の船を沈め、115日で55,000トンの連合国の船を沈めたことでU-151は記録を打ち立てた。

(もちろん、もっと若いころですよ~)

 1917年11月、U-151はセネガルのダカール港沖にあった。ダカール港に停泊する船の中には後のノーベル平和賞受賞者アルベルト・シュヴァイツァー(アルザス・オー=ラン県のケゼルスベールの牧師の息子)と彼の妻がいて、フランスへ送る他の抑留者を待っていた。
(※医療活動をしていたガボンがフランス領だったため国籍がドイツのシュヴァイツァーは捕虜となりヨーロッパへ強制送還された)

2016.1 追記
U-151は通商破壊の為、連合国船団に潜入。「8月29日に単独(完全な自由行動)でキールを出発、大西洋上とジブラルタル西部で商船を破壊して、カボ・ヴェルデ諸島とダカールの範囲まで南進し作戦延長を許諾された」とニーメラー氏の著書に書いてありました。

1917年のシュヴァイツァー夫妻

アルベルト・シュヴァイツァー バイオグラフィーより。
 ヨーロッパへの強制送還が悲劇の終わりを選んだと言っても良いほどであった。
1917年秋、セネガルのダカール港から下船する時、後に牧師となるU-151艦長マルティン・ニーメラーは港に向かうことを計画していた。(全体でおよそ20隻(!)から成る船団に、我々の艦は潜んでいた)
 後の1961年、スイス人とニーメラー自身からの手紙でこの事実を確かめた。以下の状況は、全く起こりえたかもしれない。
後に尊ばれた教会の牧師となる深淵の指揮官マルティン・ニーメラーは、後のノーベル平和賞受賞者アルバート・シュヴァイツァーを打ち壊した!
 結局、ニーメラーは彼らの港を雷撃することなく、1917年11月中旬にシュヴァイツァーらは「アフリカ(Afrique)」に乗船し、フランスのボルドー港に到着した。(2014/4/6更新


 シュヴァイツァー夫妻を乗せた旅客船「アフリカ(アフリーク Afrique)」はこの船だったのではないかと思います。1907年に建造され、1920年1月11日にラ·ロシェル付近で難破して568名もの被害者を出しています。生存者は34名だけ(1名の乗客と33名の乗組員)だったそうです。生存者は汽船「セイロン(SS Ceylon)」に救出されています。(2014/4/6更新



「親愛なるニーメラー氏。あなたはあの時、私を待ち伏せして殺そうとしました。それが成功していたら、今日あなたには希少な反核運動の価値ある仲間はいなかったでしょう。既に下見は済ませているので、我々はより良い関係を共に維持したいですね。アルベルト・シュヴァイツァー」

 ちなみに、マルティン・ニーメラーはドイツ帝国リップシュタットのルター派牧師の息子。(1892年1月14日生まれ)アルベルト・シュヴァイツァーはドイツ帝国オーヴァーエルザスのカイザースベルク(後のアルザス・オー=ラン県ケゼルスベール)の牧師の息子。(1875年1月14日生まれ
 双方とも牧師の息子で誕生日が同じというのもこれまた不思議なめぐり合わせ!

 ニーメラーとシュヴァイツァーとの対面は1950年代後半まで待つことになる。


 1918年6月15日、UC-67の艦長に就任。UC-67は彼の指揮下でフランスのマルセイユ港の一時封鎖を成し遂げる。 この功績により、ニーメラーは一級鉄十字章を受章した。
 終戦間際、ニーメラーは将来牧師になろうと決めた。父と同じ道をすすむことにしたのだ。(彼の著書「Vom U-Boot zur Kanzel(Uボートから講壇へ)」に書かれている)

 第一次大戦は終結。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位後の新体制を拒絶したため、彼は海軍を退役した。

 その後の反ナチス(当初はヒットラー支持派)・戦後の反核運動は良く知られている。詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき (Zuerst kamen sie für die Kommunisten)」は様々なところで引用されている。


参考文献:
Albert Schweitzer: 1875-1965 Eine Biografie / Nils Ole Oermann
Martin Niemöller Stiftung - azurperson
AFRIQUE PASSENGER SHIP 1907-1920
Les épaves du GRIEME
Afrique (paquebot 1907) — Wikipédia


追伸:上の本が手に入りましたので、いつかご紹介できればと思っています。(2013/06/06)



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